書物復権によせて
林大地
昨日、本棚から一冊の本を取り出した。リルケの『芸術と人生』(白水社)である。芸術や人生をめぐってリルケが語った言葉を、主に書簡から拾い集めてまとめた美しい一冊。たしか〈書物復権2022〉で復刊されたものだったように思う。ぱらぱらとページをめくっていると、次の一節に目が留まった。妻のクララ・リルケに宛てた手紙の中の一節だ。「芸術家はまるで難船した者のように、それらの事も物のをあとに残そうとして、岸に向かって投げつけているのではないでしょうか?」
ここには、詩人のマンデリシュタームやツェランが語った「投壜通信」のイメージが反響している。今にも沈没しようとする船から、誰かに届くことを祈って、壜に詰めた手紙を投げ放つ。誰かに届く保証は一切ない。どこにたどり着くかもわからない。しかし、船乗りに残された行為はそれしかない。彼の存在を証してくれるのは、小さな壜の中に折りたたまれた手紙、その一枚だけだ。芸術家もそのようにして、完全に海に沈み込むその前に、自身の作品を死を超えてこの世界に残そうとする--リルケはそう言いたいのだろうか。
ともあれ、この投壜通信の比喩は、私とリルケの関係性にも当てはまるように感じられた。クララに宛てたこの手紙が書かれたのは一九二四年。今からちょうど百年前。百年の歳月を経て、リルケが放った投壜通信は私という岸辺にたどり着いた。しかもこの本は一度水底に沈んだもの、すなわち品切れになったものだ。それが再び〈書物復権〉を通じて水面へと浮上した。それゆえそこには二重の偶然的な出会いがある。〈書物復権〉はさながら、砂を被った海底の沈殿物を再び海面へと引き上げる魔術的な糸のようである。
しかし私は同時に、拾われた投壜通信の背後には、拾われずにいる投壜通信が無数にあることを忘れたくない。いまだ漂流を続けるもの、水底の暗がりに沈んだままのもの、あるいは漂流の中途で粉々に砕け散ったもの。いまだ復権が叶わぬ失権したままの書物は数限りない。復権の無条件の祝福は失権の忘却を生みかねない以上、私は毎年の復権を祝福しつつ、それら失権したままの書物の存在も記憶に留めておきたい。その存在に気づいて初めて、私たちは、あの魔術的な糸を自分で垂らすことができるようになるだろう。
失権したままの無数の書物、その存在を開示するものとしての〈書物復権〉--それもまた、この祝祭の大事な意義のひとつではないかと思う。
◇林大地(はやし だいち)…1997年生まれ、東京都出身。慶應義塾大学商学部卒業。2020年より京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程、現在は同研究科博士課程二年。専攻は20世紀ドイツ思想史。趣味は古本屋めぐり。著書『世界への信頼と希望、そして愛--アーレント『活動的生』から考える』(みすず書房、2023)。京都大学生協発行の書評誌『綴葉』の元編集長。現在も同誌の編集委員として、毎月書評活動を行なっている。