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書物復権によせて

「みをつくし読書帖」
三中信宏

私の研究室にはおそるべき量の本が堆積している。そのほとんどが私費購入本なので、今春の退職に際してはすべて片付けないといけない。年度末はその梱包と搬出でてんてこまいである。長年にわたって本を買い蒐めた報いだと後ろ指を刺されているが、当の本人はたいして気にせず、腰をさすりながらも連日本を運び出している。

本棚をごそごそ掘り起こすとたまに長年見つからなかった本に再会し、「お前、ずっとここにいたのか」としばし時を忘れてたたずむことがある。西田龍雄『西夏文字─その解読のプロセス』(1967年、紀伊國屋書店)はそんな本だ。本書は「紀伊國屋新書」なる今ではもうなくなってしまった新書の一冊として出された。京都の河原町にあった駸々堂書店(ここもすでにない)で本書を手にしたのは、私がまだ高校生の頃だった。「西夏文字」なる外見は漢字に似ているがやたら画数が多い複雑怪奇な文字体系に私は魅了され、本書をめくりながら西夏文字を書く練習までしたほどのめりこんだ。

半世紀も前に私がたまたま西夏文字と出会ったのは偶然だったにちがいない。どうしてこんな本を買う気になったのか、今となってはまったく記憶がさだかではないからだ。将来進むべき道などまだ何も見えていなかった時代の読書が自分のその後の人生をどのように方向づけたのかは、ずっとあとになって初めて気づくのかもしれない。

著者のいる京都大学文学部に進まなかったのは私の人生の選択だった。しかし、"澪みを"としての本と出会い、その後はいったん別れても、歳月が経ったのちに思いがけずまた再会することはあるだろう。今世紀になり、伊藤悠の連載漫画『シュトヘル』(小学館、全14巻) を手にして何十年ぶりかで西夏文字の世界を再訪し、かつて経験した熱を思い出した。この西夏文字は現在ではユニコードを使えばコンピューター入力さえできるという。

出会いと別れと再会は読書経歴では珍しいことではない。本を読んでもそのほとんどは忘却の彼方へと霞んでいってしまうからだ。そう考えると西田龍雄『西夏文字』は実はひとつの"澪標みをつくし"として私の人生を導いてくれたのかもしれない。

昨年の〈書物復権〉では、まさにこの『西夏文字』が復刊候補本の一冊としてリストアップされていた。残念ながら選ばれはしなかったが、きっとまた復刊のチャンスはやってくるにちがいない。ガンバレ、西夏文字!

◇三中信宏(みなか のぶひろ)…1958 年生まれ。国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構を経て、現在は東京農業大学客員教授。東京大学大学院農学系研究科博士課程修了(農学博士)。専門分野は進化生物学・生物統計学。主な著書に『読む・打つ・書く』(東京大学出版会)、『読書とは何か』(河出書房新社)など、訳書にエリオット・ソーバー『過去を復元する』(勁草書房)、マニュエル・リマ『系統樹大全』(ビー・エヌ・エヌ新社)などがある。

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