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書物復権によせて

岩川ありさ

ある人にとって本を読むことは生きのびるための手がかりになる。本のなかに広がる世界には、かつて他者によって書かれた言葉があふれている。本は記憶を伝えるための時間輸送装置だ。あなたは何を見て、何を感じ、何を考え、何を伝えるために、この本を書いたのだろう。あなたが生きた時代や世界にはどんな景色が広がっていたのだろう。書物が復刊されるということは、過去と現在とのあいだに改めて関係性を結ぶことにほかならない。「いま、ここ」と、あなたがいる時間や空間に回路がつくられる。すると、この生きづらい時代を照らすような言葉が生まれる。

しかし、書物のバトンは、伝えなければ、伝わらない。ひとつの世代、ひとつの集団で、独占してはいけないのが「知」だ。思わぬ出会い、思わぬ混淆、思わぬ変容、思わぬ意味の発生、それらをためらわなくてもよいのではないか。あまりにも、嘘と虚像で世界が塗り込められて、自分たちに刻まれた傷や痛みにすら気がつけない。ものわかりのよい言葉、共感するための言葉がゆきかい、怒りや悲しみをとじこめることが求められる。そのうちに、自分自身の言葉は枯れ果てて、スローガンのように自動化した言葉を用いてしまう。戦時下の戦意高揚、ヘイト・クライム、ヘイト・スピーチなど、言葉の硬直がもたらしたのは、こわばった全体主義と差別と殺害だ。

誰の言葉が伝えられて、誰の言葉が伝えられないできたのか。尊厳を奪われてきた人びとが語るための言葉はすくない。しかし、たしかに、伝えようとした人びとがいて、書物をとおして、言葉は届く。百年前の言葉、千年前の言葉が、今を生きる私たちの困難をあらわしていて、驚くことがある。あなたも困難な時代を生きたのかという発見がある。読み解かれるまでの長い時間を本は待っている。その手触り、その存在が、私の現在の困難とむきあうための手立てをくれる。

書物復権。この言葉は本を未来に伝える営みを指すのではないか。書物は音を立てて消え去るのではない。ひっそりと書店から姿を消し、出版社の倉庫からも姿を消してゆく。私は、すぐに何でも擬人化してしまうので、書物が去る姿を思い浮かべる。消えたいと思って消える書物もあるかもしれない。でも、ほとんどの書物はそう望んでいないのではないか。だから、もう一度、戻ってきてくれたことを喜びたい。出版や書店のあり方は大きく変わっている。どう本を届けるのか。たやさぬバトンの届く先に私たちの生をつなぐ可能性はある。

◇岩川ありさ(いわかわ ありさ)…1980年兵庫県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程修了。博士(学術)。現在、早稲田大学文学学術院准教授。専攻は、現代日本文学、クィア・スタディーズ、フェミニズム、トラウマ研究。大江健三郎や多和田葉子らの作品を中心に、傷ついた経験をいかに語るのか、社会や言語、歴史との関わりにおいて研究している。著書に『物語とトラウマ--クィア・フェミニズム批評の可能性』(青土社、2022年)。

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