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著者 | 田中清玄 |
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出版社 | 講談社 |
ジャンル | 専門書 |
登録日 | 2024/07/06 |
リクエストNo. | 76387 |
リクエスト内容
赤色太平記(一)昭和46年1月号「共産主義潜行とのつきあい」
赤色太平記(二)昭和46年2月号「東大新人会ペンネーム『奥山久太』パルタイ・ナーメ『山岡鉄夫』の京浜オルグ時代」
赤色太平記(三)昭和46年3月号「武装共産党とコミンテルンの関係」
赤色太平記(四)昭和46年4月号「和歌浦事件とわが地下潜行」
赤色太平記(五)昭和46年5月号「武装暴動=逮捕の前夜」
赤色太平記(六)昭和46年6月号「獄中転向までの心の軌跡」
戦後、右翼フィクサーと呼ばれた田中清玄の武装共産党時代の回想録。
色々調査すると、東京帝国大学の田中清玄と南埼玉郡菖蒲町出身の東京商科大学教授で左翼だった大塚金之助(非常時共産党のメンバー)は、大阪市の家に一緒に潜伏していた時期があり、既知であった。このためなのか、1929年(昭和4年)7月、大塚金之助の実家の直ぐ近くにあった見沼弁天堂(現・久喜市菖蒲町菖蒲)にて佐野博や前納善四郎と一緒に日本共産党中央委員会の暫定ビューローの結成会議を開いている。ちなみに田中清玄は右翼に転向後、武装共産党時代の元関係者と一緒に中央公論社を訪れ、筆禍により赤尾敏などの右翼に追われていた深沢七郎の嶋中事件を手打ちにしており、しかも身の振り方まで世話したと自伝にある。通説では深沢七郎のお手伝いさんが菖蒲町出身だったため、菖蒲町に引っ越し、ラブミー農場を開いたとされるが、そのお手伝いさんを派遣したのは田中清玄ではないのだろうか。逃亡中の深沢七郎にお手伝いさんを雇う余裕があったとは思えない。ちなみにラブミー農場は田中清玄たちが潜伏していた見沼弁天堂の直ぐ目の前にあった。偶然の一致とは思えないのだが。田中清玄も深沢七郎も同じ潜伏者や逃亡者であり、政治的立場は違えど、共感したのかもしれない。勿論、深沢七郎自身は、裏で田中清玄が菖蒲町に定住させた流れを亡くなる迄知らなかったようであるが。深沢七郎の書物の中には田中清玄の影は一切無いのだが、それでも繋がっている話の様な気がする。
投票コメント
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赤色太平記は様々な共産党の研究書に出典として記載されるも、雑誌は読み捨てだったのか見つからず、雑誌記事をまとめた6冊は少部数の非売品で関係者のみに配布されただけなので、なかなか古書店でも見つからない為。 (2024/07/06)GOOD!1
読後レビュー
NEWS
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2024/07/06
『赤色太平記 清玄血風録 月刊「現代」独占連載』(田中清玄)の復刊リクエスト受付を開始しました。
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伊部星鈴