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◆ 書物復権によせて

井田太郎

短いがゆえに、俳諧の研究を始めた。『南総里見八犬伝』など長い小説はむかないと思った。五七五、わずか十七文字。清々しいまでに簡潔な詩形。しかし、ややあって後悔することになった。短い反面、ヒントが少ない。にもかかわらず、ある種の句には、どうやら膨大な情報や美意識が凝縮されている。そういう感触を密かにつかんでしまったからである。
たとえば、句材となる植物を考えてみようか。舶載時期が問題であれば、博物学の書物。吉祥や禁忌など習俗にわたれば、文化史の書物。植物の姿になじみがなければ、ヴィジュアルに富む事典。可食の植物なら、料理本に目を通すはめになる。あるいは、トマトなどのように、狩野探幽(たんゆう)が徳川時代初期に描いたにもかかわらず、詩文のモティーフに流入していかなかった植物などの場合、その理由や文化的背景も把握しておかなければならない。和歌・謡曲・漢詩などに出現する同一名の植物も考慮せねばならないが、今日同一名を与えられた植物と一致しているのか、否か。まことに頭が痛い名物学の問題も横たわる。これら混沌の上澄みのように、一句がある(そうでないものもあるが…)。短く切り詰められた基層には、こういう種々のことどもが渦を巻く。たよりになるのは、書物ばかりである。
とすれば、なすべきことは一つ。愚直に諸書によって註釈を施しながら、解きほぐすしかない。作者自身は無自覚であったが、厳然として存在する文脈が立ち現れてくることもあるはず。そう気づいてしまった日から、手もとの書物たちは増殖の一途をたどった。書架には二重三重に書物が押し込められ、机辺には堆い垣根が聳える。ときに電気コードの罠に書物の主がかかり、大雪崩を起こす。ここらへんに置いたはずの薄い書物はどこだ…。簡潔な詩形とは真反対の本棚と研究室ができあがる次第である。ボルヘスの書いたバベルの図書館のような、整然とした無限性とはほど遠い。書物、書物、書物…。
さて、中華料理の熊掌(くまのて)の調理法を御存じだろうか。濛々と蒸すこと数日。毛を毟り、爪・骨を去って、ふわふわの状態になるまで下ごしらえをする。それに、乾鮑(あわび)・干貝(かいばしら)・金華火腿(ハム)など吟撰した食材を惜しげなく投じたスープで味を入れる。くれぐれも、スープの材料だけはケチってはいけない。味に直結するからだ。なんだか、当方のしていることと一脈通ずるものがある。ケチれば、痩せた研究ができあがるだけである。この書物復権は、極上の材料を探す絶好の機会である。龍脳鳳肝(すごいもの)を拾いだすのは、みなさんにほかならない。



◇井田太郎(いだ たろう) … 1973年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業、早稲田大学大学院文学研究科単位取得退学。博士(文学)。日本文学専攻。現在、近畿大学文芸学部教授。主な著書に、『日本の環境思想の基層』(共著、岩波書店)、『原本『古画備考』のネットワーク』(共著、思文閣出版)、『近代学問の起源と編成』(共編、勉誠出版)、『日本の夜の公共圏』(共著、白水社)などがある。



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